フランスに進学を決意した娘がついに家を出ました。そもそも私の教育方針は、
自分1人で自立(自律)して生きていくこと
親の翼の下からきちんと出て、親以上に大きく育ち、社会に貢献すること
だったのだから、これは、大事な、そして必要不可欠なステップだと思っている。
下2人もいるし、これから仕事も忙しくなるし、、、大丈夫、笑顔で送りだす!
そんなつもりでいたけれども、全然そうならなかった。半年位前から、時々不安に襲われていたものの、ごまかしごまかしで、送り出す1週間前からは、何も手につかず、食欲はないし、気づけば涙してるという何とも情けない状態となってしまった。そんな自分に、誰よりも自分がびっくりした。
目次
旅立つ娘へのプレゼント
旅立つ娘にあげたものは、
- 自家製レシピブック
- 日本の包丁
私が度重なる国際引っ越しに耐えられたのは、なんといっても自炊する力だった。引っ越し先の国の材料を適当に応用して日本食もどきを作ることで、辛い時は、それを口にしてほっとすることができたし、何よりもそれを友人にご馳走したり、一緒に料理したりすることで、友情を育むことができた。
なので、旅立つ娘に持たせたかったもので、本人もとても喜んでくれた。
支えているつもりが支えられていた!
「大丈夫だよ、娘さん、しっかりしてるから1人でちゃんとやっていくよ」
落ち込む私にこんな慰めの言葉をたくさんかけていただき、気づいたこと。実は私はあんまり彼女のことを心配していない。心配しているのは、彼女がいなくなった後、私がやっていけるかということだった。
別れの前日、泣いている彼女を見て、初めて私が実家を出てフランスに来たときの心細さを思い出し、胸が締め付けられる思いをしたのは確か。でも、私自身の経験上、それは学校が始まればすぐに過ぎ去る事はよく知っているし、なんといっても彼女には「言葉」という武器があるんだから、当時の私に比べればずっとずっと簡単に新しい社会に馴染んでいくに違いないと思っていて、あまり心配していない。完璧ではないけれども、料理洗濯などの身の回りのことも小さい頃から教えてきたから、それも心配していない。
で、情けないことに、自分の準備が全然できていなかったのだ。私たち親子は、そんなに親子べったりという感じでは全くないのだけれども、それでもお腹にいた時から数えたら、19年間ずっと付かず離れずだったわけで、本当に悩みがあるときは、お互いピンと来て手を差し伸べることができた。
特に話さなくても、朝挨拶して、一緒にご飯を食べるという何でもないことが、とてつもなく貴重なことだったんだと改めて気づいた。
そして、彼女のために、彼女守らなくてはと思っていた一つ一つのことが、私に生きるエネルギーを与えてくれていたことにもようやく気づいた。
自分が潰れそうな時、気づいてくれる娘がそばにいないこと、この子のために!と思う相手が一人減ってしまうことに、ただただ立ち往生している自分。何やっているんだか。本当にもう自分がびっくり。
別れは出会いの始まり
「ママ、寂しいの?大丈夫だよ。○ちゃん(末子)がお姉ちゃんの分も頑張って手伝ってくれるよ。」
と言う息子。ちょっと照れて、手伝うのは自分と言わないところが笑ってしまう。
「ママ、お姉ちゃんの代わりにはならないけど、ママを手伝えるように頑張るよ。」
と言ってくれる末子。
素直に、「もうほんとにだめかも。2人を頼りにしてるよ。」と言うと、とても嬉しそうな顔をしてくれる2人がいる。
別れは出会いの始まりと言うけれども、もしかしたら長女が家からになるくなることで、下の2人の新しい成長が見れるのかもしれない。
もしかしたらこれが本当のプレゼント?
そんな風に少し前向きに考え始められたところで、娘から電話があった。少し弾む声で、
「日仏の友達を見つけたよ。カレーを作って、今日招待した。」
と話してくれた。私が19年間かけて全力でやったこと。
日本語と日本文化を伝授すること
が、彼女の新しい挑戦の初めの一歩に少しでも弾みをつけられたかな?と思って、とても嬉しくなった。やっぱり、継承語としての日本語は、単純に言語を教えるというのとは訳が違う。もちろん、親の私のフランス語のレベルをあげて、親子のコミュニケーションを図ることもできたのだろうけど、私はこれでよかったと思えた。よし!下2人にも、日仏の生徒たちにもビシバシまた教えていくぞ!!
なんだか、私と子どもたちのことばかり、書いてしまったが、私と教育方針を共有して、共に頑張ってきてくれた夫、今も、不安定な私をおおらかに支えてくれている夫にも改めて感謝する節目となった。
また、自分を育ててくれた家族、支えてきてくれた恩師や先輩、友達に心の底からありがとうという気持ちで一杯である。