勤務している学校外に、アクティビティとして、「漢字クラブ」というの去年作った。
「楽しく漢字を学ぶ」「漢字の原理原則にフォーカスして学ぶ」
がモットーのクラブ。
学校という整った環境で教えてくることが多かった私。そこに縛られ、そして時に、それを隠れ蓑として、楽しさを追求してこなかったかもという思いがずっとあったからだ。
学校という枠を外して、研究会での学びを実践してみたかった。実際、目の前には、学校という枠内で教えられた漢字では身に付かずに喘いでいる在日インターナルスクールの子どもたちがいるのだから。
ということで、勤務校の同僚と二人三脚(時々もう一人加わってもらって三人四脚?!)で始めた。去年は私がリーダーシップをとって、今年はパートナーの同僚がリーダーシップをとってくれて私はなんちゃって補佐役になっている。1年半が経ち、学んだことは大きく二つ。ここで、しっかり振り返り、この次につなげたいと思う。
「楽しい」と「定着」「正確に」「使える」には大きな隔たりがある
一年目の終わりに、子供たちは、どのレベル子も「漢字クラブを終わりにして欲しくない!」と言ってくれるほど、楽しんでくれた。
子供の反応から、漢字の原理原則も体得したとも感じている。
でも、定着して、使えるレベルまで行ったかといえば、それには、程遠い。
元々、それを目指していたわけではないけれど、やはりそこは教師根性が良くも悪くも騒ぎ、もう一押ししたいと、カードを作って習熟の励ましを試みたりもした。
これにうまく乗って、家庭学習まで励み、習熟まで行った子も数人いるが、やはりクラブなので宿題という形でのプッシュはでできないので、習熟まで行かなかった子が多い。
マルチリンガル漢字指導法研究会で議論をするとき、度々起こる話し合いの「すれ違い」を改めて思い出した。
楽しさを目指す、というか、楽しくないと生徒が集まらない「継承語教室の先生」
定着、成果が求められる「補習校の先生」
という両者で議論がうまく噛み合わない。
楽しい実践を紹介してくれた継承語教室の先生に、補習校系の先生が「それで定着するんですか?」と問う。
目に見えた成果を急ぐために漢字テストを繰り返し、「結局テストが終わった後は覚えていない」「漢字嫌いを生んでいるのでは?」と問う継承語教室系の先生。
どっちも知っている私は、この二つをなんとか繋ぎたかった。でも、これってそもそも全然次元が違う話なのだと改めて気づく。
そもそも、二つを一つのところで完全にやるのは難しい。
それを踏まえた上で、でも、「楽しい」がやっぱり原点だと思う。定着までには、それは、どうしたって、反復練習が必要だし、それを見取り、横から伴走するコーチが必要だけど、そこに何かしらの楽しさがないとやっぱり難しい。楽しさは人によって、年齢によって、レベルによって違う。なので、その辺の引き出しを教える側はたくさん持っておくといいのだと。
漢字クラブのコンテンツを「型」にする難しさ
今年はクラブ2年目なので、去年のうまくいったこと、行かなかったことを改善して、誰でも簡単に漢字クラブのような実践ができるように「型」にしたいなとぼんやり考えていた。結論言うと、「型」を作ったとしても、それを見て誰かがホイホイと真似してうまくいくモノでもないんだと感じている。
1つは、当たり前だけれども、子供は違うと、レベルは、もちろん、興味を持つこともかなり変わってくるから。
もう一つは、教える先生の持ち味やバックに持っている知識量の違いも影響してくるから。
1つ目は、教師として、そこを微調整するのが仕事なので、ある程度の「型」から応用をきかせるのはやらなくちゃいけないことではある。なので、そういう前提で「型」があってもいいのかなとは思う。
ただ2つ目については、私はだいぶ見落としていたと気づいた。自分では少しずつ貯めてきたものだからそんなに気づいていないのだけども、この3年間、マルチリンガル漢字指導法研究会での議論などから、少しずつ少しずつ積み重ねてきた気づきがある。ただ、それを体得してはいるものの、まだ言語化できていないから、一緒にやってきた同僚にうまく伝えられていないんだと思ったのだ。それでも、彼女は去年、私がやってきたことを尊重しながら、クラブを進めていこうとしてくれるので、結局はうまく彼女の持ち味を出せてない気もするのだ。
「型」をある程度言葉にして伝えることができるのだけども、結局、それぞれの教師が使いこなせるようになるには、やはり実践の積み重ね、時間が必要なんだ。
考えてみれば、ちょうど1年前、ミチムラ式やリズム音読を表面的になぞっているだけで、うまく使いこなしていない自分にモヤモヤしていたっけ。
何かをモノにするというのには、そうした試行錯誤なしにはありえないんだと、考えてみれば当たり前の結論に辿り着いたのだった。
マルチリンガル漢字指導法研究会のこれから
と言うわけで、研究会の役割が、これまでの
「教授法開発、実践のシェア」から、それを
「どう使いこなしていくかをそれぞれメンバーメンバーが模索するのを伴走する」こと
に変わりつつあるのかなと感じている今日この頃である。