この本との出会いと注目した章
この本、かれこれ3年「積読(ツンドク)」状態だった本である。
アメリカから日本に帰国した初めての秋。2019年だったかな。その年、何十年ぶりかに日仏教育学会に参加。バカロレアがテーマだったから。
この本はその時の発表が書籍化したもの。日本でも思考力表現力の育成が声高に叫ばれ、大学入試でも論述問題を導入、などの話が出て、全ての教科で「論述」することが求められるフランスのバカロレアから学ぶべきものがあるという流れで学会のテーマが定められたと記憶している。
私自身は、この学会でもこの本でも第5章を執筆された渡邉雅子先生の発表をすごく楽しみにしていた。
渡邉先生は、私が若い頃勤めていたリヨンのインターナショナルスクールに実地研究にいらしていたのだけれど、それは、私が去った後なので、この学会まで直接面識はなかった。
ただ、後任の方が「今、日本の大学から研究者がいらしているのだけど、きっと、香織さん、こういうことに興味がある。前に香織さんが話していたこととドンピシャリの研究をしている方」と言って、研究紀要の薄い冊子をくれたのだ。それで、それも含めて、当時子育ての真っ最中で忙しかったけど、読みかじっていたという経緯がある。
私が興味があったのは、いわゆる「作文指導」
私自身、書くことが好きだ。なぜかといえば、きちんと書くことでまず自分の考えが整理でき、深まるのを感じるからだ。このブログもそうだけど、誰のために書いているかといえば、まずは自分のため。
それから、書くことで深い部分で人と理解し合えて、コミュニケーションが取れるから。
でも、日本の作文指導は体系化されていなくて、現場ではほとんど、書かせることはしても指導されていないという印象があった。自分が子供の時も、教師になってからも。
それが、25年前、フランスに行った時に、あまりに体系化されていて、本当に驚いたのだ。その後、研究協力者という立場でフランスの現場を何度か見せてもらう機会があった時も、フランスでは、とにかく言語化(verbaliser)することをとても大切にしていて、その背景にはどんな意図というか思想があるのか、ずっと知りたかった。
その秘密を探るべく、この本を手に取った。
「書く」理想型の日米仏比較
渡辺氏は、
人が「論理的である」と感じるのは「(読み手にとって)必要な情報が読み手の期待する順番に並んでいることから、生まれる感覚である」
と応用言語学者のカプランを引用しながらの初めに述べてている。
そして、
特に作文や小論文の「型」として、学校で教えられる、思考表現スタイル、すなわち、書く構造(=順番と要素)に現れる「論理」と、その表現方法は、当該社会において主流の文化として浸透している「論理」と「思考法」を体現している
とする。つまり、作文、小論文の指導を通して、それぞれよしとしている「型」は国によって異なり、それがその国の人々の思考法を形作っているわけだ。
まず、フランスでは、いわゆる論文は、「ディセルタシオン」と呼ばれ「正ー反ー合」によって進められる。すなわち、
導入部で、与えられた問いの主題に関わる概念を定義し、当該定義に基づいて書き手が問題提起を行い、その問題提起に答えるために、主題に対するある見方(正)、それとは相反する見方(反)、そしてこれら2つの視点を統合する第3の見方(合)を導く3つの問いを立てる。
展開部では、書き手が自ら立てたこの3つの問いに答えながら、古代の著名な思想家や文学作品の引用を用いて、それぞれの部分の論証を行う。
最後にこれまでの議論を整理して、結論を導き、次になる問題提起をして終わる。
一方、アメリカのエッセイは「主張の提示」「主張の根拠」「結論」の3部構造からなる。
筆者の主張、すなわち、結論を最初に述べてしまうことと、「反」の部分を削除し、必然的に「合」をも取り続いたことにある。アメリカのエッセイは、議論の複雑性を犠牲にして、自己の主張にのみを直線的進めるため「説得」に向く。
なお、
アメリカのエッセイで根拠として用いられるのは、科学的なデータや個人の体験、歴史の出来事など「経験値」が主となる。
と説明している。
両方の国でその作文、小論文指導を垣間見た私としては、そういうことだったのか!と、思わず膝を打つほど納得がいった。
ちなみに、日本はアメリカのエッセイ型で
日本の小論文は自らとは異なる視点を「だがしかし・・・」と論証の中に組み込んでいるが、この反論は結論の補強や他の意見への配慮を示すものであり、ディセルタシオンのように「合」を導くものではない
という。
それぞれの国の論文の型には得意分野があるものの、フランスのディセルタシオンはその論文構造の仕掛けの中に次のことが仕込まれているという。
「批判的にものを見る」こと、すなわち、複数の視点からものを見ること、「評価する」こと、そして扱う主題の概念の定義を行うことによって、評価を行う際の「規準を示す」こと、引用により「共通教養」を参照しながら、偉大な先人及び自己と「対話的に考える」こと
なるほどぉ・・・と思わず唸った。
フランス人と話していると、概して、「物事に対して分析的」「引用が多い」「教養をとても大切にする」と感じる背景には、こうした受けてきた教育が背景にあるのだと。
フランス人の友達で今、日本でフランス系の会社で管理職をやっている友達が「日本人はみんな礼儀正しくて、真面目だけど、なんていうか、物事を全体的に見て、分析する力が驚くほどない」と言っていた意味が今更ながら、よくわかる。
フランスの教育小中高での「書く」指導
このディセルタシオン、バカロレア試験で書けるようになるために、小学校から段階的な指導が行われているという。
小学校では、文法学習により首尾一貫して文を書く練習と、文学のジャンルに沿って、文法、綴り、語彙レベルを矛盾なく、論理、一貫して書く練習、そして、辞書を引いて言葉を定義する習慣の形成を行っている。
中学校では「論証」のジャンルで、論証の基本と説得の多様なメニューを習い、資料や原典を根拠に抽象的な概念について書く訓練を行っている。
そして高校になると、文学作品の解釈の方法と技術を習い、実際にそれらを使ってディセルタシオンを書き、教員が添削指導する訓練が行われている。
と、渡邊氏は説明する。
これだけ読むと、初めての人ははぁ?と思うかもしれないけれど、これまでフランスの小学校の授業を垣間見たり、我が子の添削された作文を横目で見て、何が目的なんだろう?と思ってきた私は、いちいち、そういうことだったのかぁ!!と目から鱗だった。
特に、
高学年でよく行われる「物語の続きを書く」課題は、想像力を養うためではなく、文法(自制)、文体、視点(誰が語っているか)、語彙のレベルなどが一環した形式で書けるようにするため、すなわち前後で矛盾のない論理性を育成するための訓練として行われている。
というくだりは、作文指導は「想像力の育成」よりも「思考力の育成」に重点が置かれているのか!!と、ため息が出た。
また、
小学校で習った「描写」が中学に上がると「論証」へと作文の課題が変化していくという話も興味深かった。
小学校の「描写」では、時間軸に沿って、事物の関係を空間の中で位置付けながら作文を行う訓練が行われるのに対し、中学では、ディセルタシオンの「正ー反ー合」のそれぞれの基本ブロックとなる「論拠と例証」を学び、物理的な時間、空間とは異なる「論理的な順番」を表す接続詞を習うというのだ。
本当に
初等教育から中等教育を貫くグランド・デザインを体現した段階的な教育法
なんだなと感嘆した。
子供の頃、フランスで教育を受けた日本人が数十年してフランスの教育現場に立つと、そのあまりの「変わらなさ」に驚いたという話も聞いたことがある。
フランス人はこの小学校から全教科を通して、脈々と育て上げるディセルタシオンを書く力、それは、表現力でもあり、分析力、思考力に誇りを持っていて、この伝統を引き継いでいるのである。
日本の論文指導と比較して
「子供が感じたこと」いわゆる主観を素直に作文で表現することをよしとする日本のそれとは全く違うとは思っていたものの、文章を書くことそのもの自体が「思考力」しかも、うまく言えないけど、科学的というかアカデミックな思考力の育成にあるのであれば、本当に全く質が異なる。
・小学校3年生から日本人が中学校で習ったような「文法」の勉強をすること
・全ての教科で習ったことを「専門用語」を使って、必ず最後に綺麗な文章にして、視写させること(子供の言葉で書かせない)
・作文では、まず自分の思っていることや経験を書かせないこと
にこれまで違和感を感じていたけれど、そういう考えが裏にあったのか、と大いに納得した。
私は、日本式に、小学校では子供に寄り添い、感じたことを表現すること、表現を通して他者とより深い部分で理解しあえる喜びを味わせたいと思う。そして、徐々にフランス式に、型に沿ってアカデミックな言葉を使い、著名人の引用を通して、自分の経験と他者の視点を融合して表現する力、引いては、思考力を養う教育法に移行させたい。別の章で理科の先生が書いていたけど、日本の場合、いつまで経っても「生徒の主体性を重視するあまりに」子供たちが自分の経験から離れて、俯瞰して、アカデミックに思考したり、表現したりする力が十分養えていないのだから。
いやぁ、とてもいい学びがあった本でした。
最近すっかり読書は「耳読」になってしまったけど、こうやって机の前で線を引きながら、何度も読むちゃんとした「読書」で得られるものの大きさを再確認。